平成15年2月23日(文責 吉成)

ふじガ丘自治会とホームページ (その6)

西山(=向山)の間歩物語

 

じガ丘住宅地の西山(=向山)に坑道の跡があると辰巳商店のご主人から聞かされてじっとしていられなくなり、せがんで案内をお願いした。平成13年1月のことであった。子供の頃、親父に連れられて西山の坑道跡に行ったことがあったそうである。それ以来一度だけ行ったそうだ。山に登り、ハイキングコースから分かれて、藪漕ぎをして暫く進んだ。見通しが利かない。ご主人の跡をついていくが、姿を見失い、声を頼りに進んだ。「ここだ。ここだ」の声に近づいて、息をのんだ。

 

冬だというのに緑色が映えるい美しい苔に守られた岩壁の下に暗い洞穴の入り口が見えた。竪穴が深くて懐中電灯の光ではよく見えない。降りると出られなくなりそうだったので、想いを残したまま山を降りた。2月に入り、ロッククライミングの心得のあるM氏を誘い予備調査に訪れた。入り口は間口2メートル、高さ1メートル弱ほどで足元には落ち葉が厚く積もっていた。M氏がろうそくを灯しながらロープを降りた。底まで6−7メートルあり右手に曲がり、先は右と左に枝分かれしている。いかにも古そうだ。まだまだ奥があり、何を産出していたのか興味津々である。この事情をイークラブで話し合って、調べを進めることになった。誰が、何時頃、何を求めて掘り進んだのだろうか?

 

所の公表は見合わせることにしました。仲間と相談した結果、子供が入ったら、落下したり、出られなくなったりと、危険が大きいので、万一を懸念して、安全第一に考えることにしたものです。

 

A

氏と平成13年5月に宝塚市教育委員会を訪ねて直宮副課長からこの坑道は間歩(又は間夫)と呼ばれるもので、猪名川町に多く、当市にもいくつもあり考古学的な価値はないと聞かされた。平成14年1月にH氏と猪名川町多田銀銅山に鈴木盛司氏を訪ねた。彼は唯1人で豊臣家の埋蔵金を掘り続けている人物である。間歩について教えていただき、発掘現場にも案内して貰った。銀銅山は飛鳥時代から江戸時代まで掘られ、奈良の大仏の銅は此処からも産出している。間歩は全部で2760本もあった。猪名川町ふるさと館には、西山付近も含む南切畑には38本もの間歩があり、青い顔料を産出したとの記録があった。秀吉が狩野一派にここで産出した顔料を自由にして良いと許しを与えた書状もあった。美しい輝きをもった青色の顔料は金と同じ重さで取引されたほど高価であったとも伝えられる。

 

畑の山火事で美しい岩の緑苔は真っ黒に焼け焦げていた。宝塚土木事務所から山の石を落とすおそれがあるので山に入らないようにとの注意があったので、その後の状況は分からない。でも、中の様子を知りたい・・・・・・・です。

 

次回はホームページ部の誕生をご紹介します。