長尾の連山から伊丹台地にかけての文化は、平安京遷都に先んじているものと思われるのには、山中や平野部にみられる古刹が、その証ではあるまいか…。

 紫雲山中山寺創建589年
 神秀山満願寺創建725年
 桜林山栄根寺創建752年
 平安京遷都創建 794年

 このほかにも創建の年代こそ定かではないが、安倉の金鶏山大蓮寺、同じく南中山文珠院観音寺、荒牧の仙柳山容住寺等々、聖徳太子が中山寺建立に纏わる説話や伝承の多くが、また安倉の津(鳥島)や昆陽の浦、戒の川(天神川)にもみられる。
 このうち廃寺になった桜林山栄根寺は、満願寺と同様、聖武天皇の勅諚によって建立された寺で、満願寺に対して新寺と云い、順礼道より以北、花屋敷・雲雀ケ丘の両住宅地の全域が寺領であったとあるが、天正6、7年の荒木村重の乱に、満願寺・中山寺・清澄寺らと共に炎上した。  中山寺・満願寺などの他山は、規模こそ縮少されたが、見事再興され現代に至っている…栄根寺は本堂跡に一丈四面の小堂を建て本尊の薬師仏のみが祀られていたが、無惨や、先般の大地震により倒壊して、本尊は川西市の教育委員会で保管されているそうである。
 同じく長尾山麓の名刹中山寺の本尊、11面観音像は、インドの王后シュリーマーラー(勝鬘夫人)の姿を写したものと云われる。
 故に西国33所観音霊場第24番の札所として有名であり、豊臣秀頼再建の寺、それだけに華麗であり順礼者など多数で殷賑を極めているが、それにくらべ満願寺は地味である。しかし源祖満仲の崇敬を受けて、氏寺となり、後に後醍醐天皇の勅願寺・室町幕府の祈願所でもあり、堂・院には、重要文化財に指定された佛像数体のほか、貴重な古文書あまたである。

 鎌倉時代には50棟に及ぶ堂宇が並んでいたとか。それも兵火によって炎上したが徐々に再建、堂・院・庵・坊など併せて20余棟が、堂々甍(いらか)を並べていたという…いまの本坊当時の円覚院で、その佇まいから昔日の俤が偲ばれる…この本坊前庭の景観は……斜崖地をうまく取り込み、その裾に遣水(流れ)や池を穿ち、それに島を浮かべ清洌なる水面に雲や緑を映して静かであり、寂たる石組は他にみられるような唐突をさけて穏やかで幽玄を生む…本園を名庭と呼ぶこと、蓋し当然であろう。
 想うに、この庭は当山名僧の構想によるもので、それを受けた、平井や山本あたりの庭師たちの手によるものではなかろうか…と。 (非公開)  また、境内には源氏由縁の敬法尼が両親追善の供養にと建立した重文指定の九重石塔をはじめ、源家一門の墓石が多く見られるなど、中山寺とならぶ名刹と云えよう。
 ただ中山寺は豪壮華麗で動とでも云うべきか、それにくらべて満願寺は、静の佇まいであろう…。燻銀にみる深みがあり、品性高くして飄々たる風貌の名僧を想わせる佛舎である。更に当山は開基以来、現住若田等慧上人に至るまで、若田氏の一系が護持にあたられていること、他山に類例少なく、奇特の至りであるが、今般はこの寺の歴史などを省き、明治時代以降この寺界隈のことについて、愚文を呈してみた。
 明治30年(1897)、国有鉄道東海道線神崎駅(尼崎駅)を起点とした、私設阪鶴鉄道が宝塚まで延長され、当時の川西村寺畑に池田駅(いま川西池田駅)が開設され、これより北へおよそ2キロのところの満願寺に向う道路が拡巾され、参詣者の便を図った…、世にこの道を満願寺道と、今に伝えている。
 明治40年(1907)前後に、東塚一吉と云う人が、参詣者や近隣の人の湯治を兼ねた憩いの場として、炭酸泉花屋敷温泉を開きこれが花屋敷と云う地名となって定着した。
 明治43年(1910)、箕面有馬電鉄(箕有電車−阪急宝塚線)が大阪の梅田より宝塚まで開通し、満願寺への参詣者を目あてに、花屋敷駅(満願寺道よりやや西より)を開設、これによって満願寺への参詣者は倍増したと云う。
 大正3年(1914)、第一次世界戦争に我国も参戦するが、一方では、彼我の双方から兵器・食糧・海運の注文が殺到して、未曾有の好景気に湧くなか、阿部元太郎氏が花屋敷駅山手の一帯を入手、花屋敷住宅地を、つづいて雲雀ケ丘住宅地を分譲、これらの住宅地は、電線・電話線を地下式に、下水道を敷設して水洗便所の洋風建築が、みどり濃き、斜面地に点在すると云う…。この当時、まれなる高級住宅地であって、大阪やその周辺の経済人や有名人は、こぞって移り住んだ。
 昭和5年(1930)、村上商店の土地部が花屋敷住宅地約25000坪を拡巾、昭和10年(1935)には雲雀ケ丘住宅地約21000坪が拡巾され、つづいて平井山荘住宅地が開発され、長尾山東部南面は、高級住宅地帯となって今に至っている。
 戦後に至って、長尾連山の全域が住宅地として山容を変えているが、山中にみられる満願寺・栄根寺・中山寺・清澄寺などの名刹や太古からの遺産と云われる吾孫子の神所や天宮塚なども、この山のもつ好条件によるものであろう。
 殊に長尾連山東部南面は、山のみどり深く、水きよく、気候温和のところ、前面の伊丹台地を経て大阪平野が拓け、その向うに大阪湾が煌めき、金剛・葛城・生駒の山並はるか、東に千里丘陵から箕面山や五月山と、頭を西にめぐらせば、甲山から東六甲の山々が霞む…、満願寺の近くには、名瀑、最明寺の滝があり、

年を経て深山かくれのほととぎす
きく人もなく音のみぞなく

 …と、平安貴族藤原実方朝臣が詠んでいる。
 それからわずかのところに雲雀ケ丘住宅の名をなした雲雀の滝があり、最明寺滝の上段にみられる仏足石は、最明寺入道(鎌倉幕府執権北条時頼)が止錫せし西明寺跡、いまそれを庭内に取り入れた井植山荘は、大正時代造園の鬼才と云われた梅叟の手になる名庭で、四季の変化をみせていて、庭内の一画にみえる多宝塔は、大和高円山の白毫寺から移したもの、庇に吊した風鐸は、いまも天平の音を響かせている。

 満願寺道の途中、つつじケ丘のあたり、鎌倉時代の名石工井野行幀作の磨崖仏(地蔵)がみられるが、兵庫県最古のものとか、世人はこれを豆坂地蔵と呼んでいる。この上段一帯に宝塚造形芸術大学が、満願寺の門前をすぎて山中には愛宕原ゴルフ場や、長尾台中学校などのほか、閑静な住宅地が点在している。

 当代、満願寺住職若田等慧上人の大叔父に当る人、西宮市在の故六馬仁兵衛翁は、人情厚く、侠気強く、豪快・闇達の士で、山本の旧家金岡庄右衛門家(植松造園)の出身であり、当山の先々代若田寛猛上人とは連枝(兄弟)のなか…、寛猛上人なきあとの一時、満願寺に起居して、この寺の護持にあたられたと聞いている。
 六馬翁は、筆者の父とは刎頸のなか、満願寺を訪ねられた帰途、拙宅にもよられ、父と旧談に花を咲かせ、呵々大笑のなかに、満願寺の興隆のことについて、熱情を込めて話しておられたことを思い出す。

 それかあらぬか、そのころ大阪市の心斎橋筋で呉服商を営み財を成した人、田中数之助氏は不動産をも手がけられ、能勢口土地株式会社を設立されたが、後に新花屋敷温泉土地株式会杜と改られ、満願寺の西南部に温泉場や、遊技場・小動物園と、宝塚新温泉(歌劇・映画館・動物園・植物園など)に見合うレジャーランドの開設を計画されたが、それの第一条件は阪急花屋敷駅より、レジャーランドまでの客を運ぶ手段であった。
 最初幌付自動車が、しかし大量輸送には無理、次に乗合バスを、それもその当時の自動車では人を乗せて急坂は登れない、普通電車も考えのうちにあったが、これもこの急勾配では不可能との結論により、最終案としては、普通電車に近い、乗客数も多いトロリーバスであった。即ち無軌道電車である。
 この電車は線路なく、一般の道路を走る。
道路の両脇に電柱を立て架線を張り、直流で電気を流す。車輪はソリッドタイヤ(硬質のゴム)で、路面の二条(轍)をコンクリートで固めその上を走る。
 スリップ少なく、摩擦抵抗が少なく、急坂にも適すると云う…。奇想天外のものが計画され、大正14年(1925)に県を経て内務省に設置申請が提出された。これを受理した内務省では、日本ではじめてのこと、慎重を重ねたうえ、昭和2年(1927)の12月に許可され、温泉場・遊園地と併せて直ぐに着工、昭和3年(1928)8月に完工し、開業の運びとなった。
 各新聞社は、日本最初の無軌道電車と云う見出しで、紙面の多くを割いた。新花屋敷温泉株式会社でも飛行機で宣伝ビラの散布があったような気がする。
 また満願寺でもこれに呼応して、盛大な会式が挙げられたように思うが定かでない。

 以上、無軌道電車形態ほかのあらましである…が、ソリッド車輪でコンクリートの上を走るので、ガタン・ゴトンと振動はげしく胃にこたえるとは、乗客たちの囁きであった。
 雪の日の急坂はスリップするので、乗客も降りて押すと云う有様、料金の高いせいもあってか空車が多くて、途中でも降ろしてくれた。

 それでも筆者は日曜日になると、この電車を見るため、順礼道を急いだ。ターンテーブルで電車を廻す、それが子供にとってどれだけ珍しかったことか…。それを手伝うと電車に乗せてくれ遊園地へ…、猿や孔雀の濫などで充分に楽しんだあと、帰りは山道を藤田の別荘(井植山荘)の前を通り(細い山道であった)、平井の里に出て家に帰り着く。
 新花屋敷温泉は後に、資本金90萬円の日本無軌道電車株式会社と名を変えたが、事業不振のため昭和7年(1932)の1月に廃業し、その期問は僅か4年であった。
 しかし筆者にとって満願寺のこと、六馬翁のこと、遊園地や無軌道電車のことなど、尽きぬ思い出でなつかしく、また温かく__。
名刹満願寺の山内を逍遥して…、胸せまる思いである。

 平井の集落を山中へ。満願寺を経て多田政所に向かう家人たちが行き交いし道で御家人道とも云う。その道の途中の大別荘は大阪の大冨豪藤田男爵が贅を尽したもの、庭園もこの道の鬼才と云われた梅叟の作で、山穢(やまもみじ)や馬酔木(あしび)・三葉つつじや山桜など自然を生し、天鵞絨苔(びろうどこけ)を敷きつめ、十三重の石塔・各種の石灯籠・鞍馬産の沓ぬき石や飛石と、邸内にみる佛足石は西明寺(後に最明寺)跡を示すもの。最明寺滝の音がすか、山上の多宝塔は、奈良高円山の白毫寺(天智天皇の皇子施基(しき)親王の別荘)から移したもの。
 春は萌え出でる若葉が、夏は緑陰をくぐって吹く風すずしく、秋は紅葉の色も濃く、冬は雪しんしんと降り積もる。四季とりどりにその趣きは絶妙である。
 戦後、三洋電気の井植氏がこれを入手されて以来、井植山荘と云う……阪急宝塚線山本駅から北へ約30分のところ。(非公開)

文 
大正5年、宝塚市山本中(旧長尾村)の園芸業に生まれる。 昭和5年、旧長尾尋常高等小学校を卒業後家業に従事。 18年、川西航空機に入社。 24年、西宮市消防吏員となり、48年、退職。山草、盆栽等の育培と共に郷土史を探る。 平成3年、伊丹台地文化研究会に参加、各地て講師を務める。 著書に「山本の郷土史」「山本の牡丹」「伊丹台地の史話と昔ばなし」など。

出典:ウィズたからづか